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ノルウェイの森(下)
ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

友情、純愛?、記憶、生と死、1969
やっぱり村上作品は、読後なんだか腑に落ちない。

押し付けられるのは嫌な子なんだなって最初会ったときに思ったから。だからね、まずその子に自分の好きなように弾かせるの。百パーセント好きなように。次に私がその同じ曲をいろんなやり方で弾いてみせるの。そして二人でどの弾き方が良いだとか好きだとか討論するの。それからその子にもう一度弾かせるの。すると前より演奏が数段良くなってるのよ。良いところを見抜いてちゃんと取っちゃうわけよ。
結局のところその子はきちんとした訓練に耐えることができない子なのよ。世の中にはそういう人っているのよ。素晴らしい才能に恵まれながら、それを体系化するための努力ができないで、才能を細かくまきちらして終わってしまう人たちがね。
そういう子を教えるときのコツはまず誉めすぎないことね。ときどき上手な誉め方をすればそれでいいのよ。それから物事を押し付けないこと。自分に選ばせること。先に先にと行かせないで、立ち止まって考えさせること。

崩れるときって、本当にあっという間なのよ。









仮定法だの微分だの、日常生活の中で役に立つということはあまりないね。でも具体的に何かの役に立つというよりは、そういうのは物事をより系統的に捉えるための訓練になるんだ。ある種のことはやりやすくなるだろうね。形而上的思考、数ヶ国語の習得、たとえばね。でもそういうのはあくまで訓練なんであって、役に立つ立たないはその次の問題なんだよ。

日曜日には僕はねじを巻かないのだ。

自分の力を百パーセント発揮してやれるところまでやる。ほしいものはとるし、欲しくないものはとらない。そうやって生きていく。駄目だったら駄目になったところでまた考える。
努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ。

自分がどこにいるのかも定かではなかった。正しい方向に進んでいるという確信もなかった。ただどこかに行かないわけにはいかないから、一歩また一歩と足を運んでいるだけだった。



放っておいても物事は流れるべき方向に流れるし、どれだけベストを尽くしても人は傷つくときには傷つくのです。

死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいる。
どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを悲しみ抜いて、そこから何かを学び取ることしかできないし、そしてそのまなびとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに大しては何の役にも立たないのだ。

季節が巡ってくるごとに僕と死者たちの距離はどんどん離れていく。
















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一般書 【2010/01/02】 edit
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